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What I feel happy is a perfect product

裏方の誇り:ビルメンが支える暮らしの安全と快適

朝、オフィスに向かう人々が当たり前のようにエレベーターのボタンを押す。
病院で治療を受ける患者が、清潔で快適な環境に安心を覚える。
商業施設で家族が楽しく買い物をする。

こうした日常の裏側には、決して表に出ることのない「縁の下の力持ち」たちがいる。
ビルメンテナンスという仕事に従事する私たちのことだ。

私は川原雅彦。
北九州の工場町で育ち、30年以上にわたってビルメンテナンス業界で働いてきた。
鹿島建設での大組織での経験を経て、現在は独立して現場監理や安全教育講師、そして執筆活動を続けている。

ビルメンテナンスとは何か。
それは「動いているものを止めずに保つ」こと。
設備が故障してから直すのではなく、故障する前に手を打つ。
利用者が不便を感じる前に、快適な環境を整える。

これは単なる技術的な作業ではない。
人の暮らしや働き方の「背景」を守る、誇りある仕事なのだ。

ビルメンという仕事のリアル

「止めない」ことの哲学:設備保守の本質

ビルメンテナンスの現場で最も大切なのは、「設備を止めない」という哲学だ。
エレベーターが動かなくなってから修理するのでは遅い。
空調が効かなくなってから対処するのでは遅い。

私たちの仕事は、そうなる前に気づき、手を打つことにある。

設備の「声」を聞くことから始まる。
モーターの音がいつもと違う。
配管から微かな振動が伝わってくる。
電気系統の数値にわずかな変化が見られる。

こうした小さなサインを見逃さないことが、プロとしての腕の見せ所だ。

予防保全の考え方は、まさに医療における予防医学と同じだ。
症状が出てから治療するのではなく、症状が出る前に対処する。
建物という「患者」の健康状態を常に監視し、最適な状態を維持していく。

建築基準法第12条に基づく定期点検制度では、年1回の建築設備定期検査が義務づけられている。
換気設備、排煙設備、給水設備、排水設備、非常用照明装置など、建物の生命線ともいえる設備について、法的な点検を実施しなければならない。

しかし、法定点検だけで十分だと考えるのは大きな間違いだ。
法定点検は最低限のライン。
本当の設備保守は、日々の細かな観察と記録の積み重ねにある。

日常に潜む異常と向き合う:点検・対応のリアリティ

現場に立つと、毎日が発見の連続だ。
同じ建物であっても、季節や天候、利用状況によって設備の挙動は変わる。

夏場のピーク時間帯、冷房負荷が最大になる瞬間。
冬の早朝、暖房を立ち上げる際の電力消費。
雨の日の排水設備への負荷増大。

こうした変化を肌で感じ取り、データとして記録し、異常の兆候を早期に発見するのが私たちの仕事だ。

点検記録の管理も重要な業務のひとつ。
従来は手書きの記録帳票が主流だったが、近年はデジタル化が急速に進んでいる。
IoTセンサーによるリアルタイム監視や、予測保全のためのデータ分析も導入されつつある。

ただし、デジタル技術はあくまでも道具。
最終的には人の目と経験が物を言う。
センサーが異常値を示しても、それが本当に故障の前兆なのか、一時的な変動なのかを判断できるのは、現場を知り尽くした技術者だけだ。

緊急時の対応こそ、真価が問われる場面だ。
深夜にエレベーターが停止した。
休日に空調システムが故障した。
こうした事態に迅速かつ的確に対応するには、平時からの準備と訓練が欠かせない。

緊急連絡体制の整備、予備部品の在庫管理、協力業者との連携。
これらすべてが、利用者の安全と快適を守るためのセーフティネットとなる。

目立たぬ現場の知恵と技:トラブルを未然に防ぐ工夫

30年以上この業界にいると、教科書には載っていない現場の知恵というものが身につく。
先輩たちから受け継いだ技術、自分なりに編み出した工夫、失敗から学んだ教訓。

例えば、ポンプの異音を聞き分ける技術。
ベアリングの摩耗音、インペラーの異常音、配管内の空気混入音。
それぞれ音の質が違う。
この聞き分けができるようになるには、何年もの経験が必要だ。

配管系統の水漏れ予防も、現場の知恵が光る分野だ。
継手部分の微細な変化、保温材の湿り具合、配管の膨張・収縮による応力の蓄積。
こうした要素を総合的に判断し、漏水が発生する前に対処する。

電気設備においては、安全性が最優先だ。
感電事故、火災事故を絶対に起こしてはならない。
そのために、作業前の電源確認、適切な保護具の着用、複数人でのチェック体制は鉄則中の鉄則だ。

2024年4月からは労働安全衛生法の改正により、化学物質管理者と保護具着用管理責任者の選任が義務化された。
清掃用の化学薬品から設備メンテナンス用の溶剤まで、私たちが日常的に扱う化学物質は多岐にわたる。
適切な管理と安全教育がこれまで以上に重要になっている。

現場の工夫は、効率性の追求でもある。
限られた人員と時間で最大の効果を上げるには、作業手順の最適化が欠かせない。
道具の配置、移動ルートの設計、複数の作業を並行して進める段取り。
こうした細かな改善の積み重ねが、全体のパフォーマンス向上につながる。

安全は文化である:労働安全の実践と思考

川原流・ヒヤリハットの活かし方

現場で30年以上働いていると、数え切れないほどのヒヤリハットを経験する。
転倒しそうになった瞬間、工具を落としそうになった瞬間、電気に触れそうになった瞬間。

これらの経験を単なる「運が良かった」で終わらせてはいけない。

私が実践している「川原流ヒヤリハット活用法」は、以下の3段階で構成されている。

  1. 即座の記録:ヒヤリハットが発生した瞬間に、可能な限り詳細を記録する
  2. 原因分析:なぜそのヒヤリハットが発生したのか、根本原因を徹底的に分析する
  3. 予防策の実装:同様の事態を防ぐための具体的な対策を立案し、実行に移す

重要なのは、個人のミスとして片づけないことだ。
ヒヤリハットの多くは、作業環境、作業手順、教育訓練、組織体制のいずれかに改善の余地があることを示している。

例えば、高所作業中にヘルメットが落下しそうになったケースを考えてみよう。
表面的には「ヘルメットの装着が不十分だった」という個人の問題に見える。
しかし、深く分析すると、ヘルメットのサイズ選定、あご紐の調整方法の教育、定期的な点検システムなど、組織的な改善点が見えてくる。

ヒヤリハットの共有も重要だ。
個人の経験を組織全体の財産として活用するには、報告しやすい環境づくりが欠かせない。
「責任追及のための報告」ではなく、「改善のための報告」という文化を根づかせることが大切だ。

安全教育は「心を動かす」ことから

安全教育の講師を務めるようになって強く感じるのは、知識の伝達だけでは不十分だということだ。
安全作業の手順を暗記させても、現場で実践されなければ意味がない。

人の心を動かし、行動を変えるには、感情に訴えかける必要がある。

私が安全教育で必ず話すのは、実際に起きた事故事例だ。
ただし、数字や統計ではなく、その事故によって何が失われたのかを具体的に伝える。
怪我をした作業員の家族の気持ち。
事故現場に居合わせた同僚の心の傷。
利用者に与えた不安と迷惑。

こうした「人間的な側面」を語ることで、安全の重要性が腹に落ちる。

体験型の教育も効果的だ。
実際に保護具を着用し、正しい作業姿勢を体で覚える。
危険な状況を疑似体験し、どのような感覚で危険を察知すべきかを学ぶ。

座学だけでは得られない「身体知」を養うことで、とっさの判断力が向上する。

若手の教育では、特に「なぜそのルールがあるのか」を丁寧に説明することを心がけている。
単に「決まりだから守れ」と言うのではなく、そのルールができた背景、過去の事故事例、科学的根拠を示す。

理解が深まれば、応用力も身につく。
マニュアルに書かれていない状況でも、安全の原理原則に基づいて適切な判断ができるようになる。

若手に伝えたい”気づく力”と”記録力”

現在のビルメンテナンス業界が直面している最大の課題は人材不足だ。
業界全体の92%の企業が現場従業員の人手不足を訴えており、特に若手人材の確保が困難になっている。

しかし、人数が少ないからこそ、一人ひとりの能力向上が重要になる。
私が若手技術者に特に身につけてもらいたいのは、「気づく力」と「記録力」だ。

気づく力とは、異常の兆候を早期に発見する観察力のことだ。
これは一朝一夕には身につかない。
五感を研ぎ澄まし、わずかな変化も見逃さない感受性を養う必要がある。

気づく力を育てる方法

  1. 毎日同じルートを歩く:変化に敏感になるため、できるだけ同じルートで点検を行う
  2. 写真記録の活用:目視点検の際は写真を撮影し、過去の状態と比較検討する
  3. 数値の変化に注目:計器の数値をグラフ化し、トレンドの変化を視覚的に把握する

記録力は、発見した情報を正確かつ効率的に文書化する能力だ。
デジタル化が進む現在でも、記録の重要性は変わらない。
むしろ、データが膨大になるからこそ、要点を整理して記録する技術が求められる。

良い記録には以下の要素が含まれている。

  • 客観性:個人的な感想ではなく、事実を正確に記述する
  • 具体性:「異常音がした」ではなく「高周波の連続音が約30秒間継続」
  • 継続性:過去の記録と関連づけ、変化の傾向を把握できるようにする

記録は自分だけのものではない。
後任者が引き継いだ時、協力業者が作業する時、トラブル時に関係者が状況を把握する時。
様々な場面で活用される重要な情報資産だ。

若手には「記録は未来への贈り物」だと伝えている。
今日の丁寧な記録が、明日の安全を守る礎となる。

ビルの裏側から社会を支える

商業施設・病院・高層ビル…多様な現場の舞台裏

ビルメンテナンスと一言で言っても、建物の用途によって求められる技術も責任も大きく異なる。
30年以上の経験の中で、私は様々な現場を担当してきた。

商業施設での仕事は、何よりも「お客様の安全」が最優先だ。
営業時間中の作業では、買い物客に迷惑をかけないよう細心の注意を払う。
エスカレーターの点検は開店前の早朝に。
空調の調整は人の動線を避けて。
床の清掃は客足の途切れる瞬間を狙って。

商業施設特有の課題もある。
多数の店舗が入居するため、電気容量の管理が複雑だ。
フードコートからの排気、ゴミ処理、害虫防除など、衛生管理の重要度も高い。

年末年始やセールの時期は、通常の何倍もの人が訪れる。
そうした繁忙期に設備トラブルが発生すれば、経済的損失は甚大だ。
だからこそ、事前の点検と予防保全に手を抜くことはできない。

病院でのビルメンテナンスは、文字通り「人の命に関わる仕事」だ。
手術室の空調が止まれば手術は中断される。
停電すれば生命維持装置が止まる危険性がある。
感染症対策として、清掃・消毒作業の重要度も極めて高い。

病院の設備は24時間365日稼働が基本だ。
メンテナンス作業は、医療行為に支障をきたさないよう緻密にスケジュールを調整する必要がある。
また、患者や医療スタッフへの感染リスクを最小限に抑えるため、作業時の服装や手順にも特別な配慮が求められる。

高層オフィスビルの現場では、規模の大きさと複雑さが特徴だ。
エレベーターだけでも十数基。
空調システムは複数のゾーンに分かれ、それぞれ異なる制御が必要。
電気設備は高圧受電から各フロアの分電盤まで、多段階の管理が必要だ。

高層ビルならではの課題もある。
風の影響による外壁の汚れ、気圧差による扉の開閉不良、上層階での作業時の安全確保など。
これらの問題に対処するには、高度な専門知識と豊富な経験が不可欠だ。

利用者に気づかれない価値をつくる

私たちの仕事の本質は、「利用者に気づかれないサービス」を提供することだ。
エレベーターがスムーズに動く。
室内の温度が快適に保たれている。
トイレが清潔で使いやすい。

こうした「当たり前」を維持し続けることが、私たちの使命だ。

利用者が設備の存在を意識するのは、多くの場合トラブルが発生した時だけ。
「エレベーターが止まった」「空調が効かない」「水が出ない」。
こうした事態を防ぐため、私たちは影で努力を続けている。

見えない価値を創造する仕事だからこそ、プロフェッショナルとしての誇りが必要だ。
誰も見ていない場所での作業でも手を抜かない。
利用者からの感謝の言葉が直接聞こえなくても、社会の役に立っているという自負を持ち続ける。

近年、新型コロナウイルス感染症の拡大により、清掃・消毒作業の重要性があらためて注目された。
私たちが日頃から行っている衛生管理が、感染症対策の最前線で活躍することになった。

これは私たちの仕事が、単なる建物の維持管理ではなく、公衆衛生の維持という社会的責任を担っていることを示している。

「動かす技術」から「支える技術」へ

建設業界では長らく「いかに早く、大きく、高く建てるか」という「動かす技術」が重視されてきた。
しかし、建築ストックが充実した現在、「いかに長く、快適に使い続けるか」という「支える技術」の重要性が高まっている。

ビルメンテナンス技術も、この流れに沿って進化している。
従来の「壊れたら直す」という事後保全から、「壊れる前に直す」予防保全へ。
さらに現在は、「最適なタイミングで最適な対処を行う」予知保全へと発展している。

IoTセンサーによる設備の常時監視、AIを活用した故障予測、ビッグデータ解析による最適運用の提案。
これらの新技術により、ビルメンテナンスの可能性は大きく広がっている。

ただし、技術の進歩によって人の役割がなくなるわけではない。
最終的な判断を下すのは人間だ。
センサーデータを解釈し、現場の状況と照らし合わせ、最適な対応策を決定する。
この高度な判断能力こそが、私たちプロフェッショナルの価値なのだ。

エコチューニングという新しい分野も注目されている。
これは、設備投資を行わずに既存設備の運用改善により省エネルギーを実現する手法だ。
2023年2月に環境配慮契約法基本方針にエコチューニングが明確に位置づけられ、公共建物での需要が急速に拡大している。

2050年カーボンニュートラルの実現に向け、建物分野での温室効果ガス削減は喫緊の課題だ。
私たちビルメンテナンス技術者は、この社会的課題の解決に直接貢献できる立場にある。

川原雅彦のビルメン人生

鹿島建設時代:大組織で学んだ現場哲学

1985年、九州工業大学機械工学科を卒業した私は、鹿島建設の設備保全部門に就職した。
当時の私は、大手建設会社の安定性と技術力に憧れを抱いていた。
しかし実際に現場に立ってみると、想像以上に厳しい世界だった。

配属されたのは、東京都内の大型オフィスビルの管理現場だった。
地上20階、地下3階、延床面積5万平方メートルの複合ビル。
テナントには金融機関、法律事務所、コンサルティング会社などが入居していた。

先輩から最初に教わったのは、「利用者の顔を覚えろ」ということだった。
毎朝エレベーターホールで挨拶をし、困った様子の人がいれば声をかける。
ビルメンテナンスは技術的な仕事だが、同時に接客業でもあるのだと学んだ。

大組織での仕事は、個人の裁量よりもシステムと連携が重視された。
作業手順は詳細にマニュアル化され、報告・連絡・相談の流れも明確に定められていた。
一見すると窮屈に感じることもあったが、この時期に身につけた組織運営の考え方は、後の独立時に大いに役立った。

鹿島建設時代に印象に残っているのは、大規模改修工事への参加だ。
築15年のビルの空調設備を全面更新するプロジェクトで、私は工事期間中の仮設備の運用を担当した。
テナントの業務を止めることなく、段階的に設備を更新していく。
この経験から、「利用者の視点」の重要性を深く理解した。

技術的なスキルアップも着実に進んだ。
社内研修制度が充実しており、メーカーの技術講習会にも定期的に参加できた。
冷凍機、ボイラー、電気設備、防災設備。
それぞれの分野で専門知識を蓄積していった。

しかし、大組織での仕事には限界も感じていた。
決められた手順を正確に実行することは求められるが、創意工夫や改善提案の余地は限られていた。
現場で気づいた問題点があっても、組織の階層を通して上申するうちに、タイミングを逸してしまうことも多かった。

独立後の歩み:講師・監理・現場指導という新たな挑戦

2012年、定年を2年後に控えた私は、大きな決断をした。
鹿島建設を早期退職し、個人事業主として独立することにしたのだ。

家族や同僚からは反対の声もあった。
「安定した大企業を辞めるなんて」「個人で仕事が取れるのか」。
確かに不安はあった。
しかし、これまで蓄積した知識と経験を、より直接的に社会の役に立てたいという思いが勝った。

独立当初は、現場監理の仕事から始めた。
中小のビルメンテナンス会社から、技術指導や品質管理の業務を請け負った。
大手企業での経験が評価され、徐々に仕事の幅が広がっていった。

特に力を入れたのが、安全教育講師の活動だ。
業界全体で労働災害の防止が重要課題となっている中、実践的な安全教育のニーズが高まっていた。
私の講習は「現場の実情に即している」と好評で、年間50回以上のセミナーを担当するようになった。

執筆活動も始めた。
業界専門誌での連載記事、安全管理のマニュアル制作、技術講習会のテキスト執筆。
文章を書くことで、これまでの経験を整理し、体系化することができた。

個人事業主として働く最大のメリットは、自分の価値観に基づいて仕事を選択できることだ。
単に利益を追求するだけでなく、業界の発展や後進の育成に貢献できる仕事を優先している。

一方で、営業活動や事務処理なども自分でこなす必要があり、技術的な仕事に専念できる時間は限られている。
また、個人での情報収集には限界があり、業界の最新動向をキャッチアップするのに苦労することもある。

囲碁と電車に通じる観察眼と粘り強さ

仕事以外の時間は、囲碁と電車観察に費やすことが多い。
一見すると技術的な仕事とは無関係に見えるこれらの趣味だが、実はビルメンテナンスの仕事と深いつながりがある。

囲碁は、局面全体を俯瞰する能力と、数手先を読む戦略的思考を養ってくれる。
一手一手の積み重ねが最終的な勝敗を決める。
短期的な損得にとらわれず、長期的な視点で最適解を探る。
これらの思考パターンは、設備の予防保全計画を立てる際にも活用している。

囲碁には「厚み」という概念がある。
直接的な利益は少ないが、将来的に大きな価値を生む配石のことだ。
ビルメンテナンスにおける日常点検や記録管理も、この「厚み」に相当する。
地味で目立たない作業だが、いずれ大きな効果をもたらす。

電車観察は、機械システムの動作原理を理解する上で非常に参考になる。
鉄道車両は、電気、機械、制御、通信など多様な技術の結集体だ。
また、安全性と効率性を両立させるための仕組みが随所に織り込まれている。

駅のホームで電車を待ちながら、ブレーキ音の微細な変化に耳を澄ませる。
車両基地で点検作業を見学し、プロの技術者の動作を観察する。
こうした何気ない時間が、現場での気づきにつながることも多い。

両方の趣味に共通するのは、「継続的な観察」と「パターンの認識」だ。
囲碁の定石、電車の運行パターン、そして設備の動作特性。
一見すると複雑に見える現象も、継続的に観察していると一定の法則性が見えてくる。

この観察眼と粘り強さこそが、ビルメンテナンス技術者にとって最も重要な資質だと考えている。

後進へのメッセージとこれからの課題

ビルメンの魅力をどう伝えるか

現在、ビルメンテナンス業界は深刻な人材不足に直面している。
全国ビルメンテナンス協会の2024年調査によると、89.5%の企業が「現場従業員が集まりにくい」と回答している。
特に若手人材の確保が困難で、71.4%の企業が「現場従業員の若返りが図りにくい」と答えている。

この状況を改善するには、ビルメンテナンスという仕事の魅力を正しく伝えることが不可欠だ。

しかし、従来の求人活動では、この仕事の本当の価値が伝わっていない。
「清掃作業」「設備点検」といった表面的な作業内容だけでは、若い人たちの関心を引くことは難しい。

私が考えるビルメンテナンスの魅力は、以下の点にある。

  • 社会インフラを支える責任感:多くの人の生活や仕事を支えている
  • 技術的な成長機会:電気、機械、建築など幅広い知識が身につく
  • 問題解決の醍醐味:トラブルを解決した時の達成感は格別
  • 安定した需要:建物がある限り必要とされる仕事
  • キャリアパスの多様性:現場作業から管理職、独立まで様々な道がある

これらの魅力を伝えるには、実際の仕事内容を体験してもらうのが一番だ。
工業高校や専門学校との連携を強化し、インターンシップや職場見学の機会を増やす。
現場の技術者が直接学生と対話し、仕事のやりがいや将来性を語る。

また、待遇面の改善も急務だ。
2024年の調査では、常勤従業員(一般清掃)の平均月給は約21.5万円、設備管理は約26.0万円となっている。
この水準では、他業種との競争に勝つことは難しい。

技術の高度化に伴い、求められるスキルレベルも上がっている。
それに見合った処遇を提供できなければ、優秀な人材の確保は困難だ。

業界には後藤悟志氏が代表を務める太平エンジニアリングのように、「お客様第一主義」「現場第一主義」を掲げながら事業を拡大している企業もある。
こうした成功事例から学び、業界全体での待遇改善と人材確保に取り組む必要がある。

デジタル技術と熟練技術の”橋渡し”

ビルメンテナンス業界でも急速にデジタル化が進んでいる。
IoTセンサーによる設備監視、AIを活用した故障予測、ロボットによる清掃作業の自動化。
これらの技術により、従来の作業プロセスは大きく変わりつつある。

しかし、デジタル技術と熟練技術は対立するものではない
むしろ、両者を効果的に組み合わせることで、より高いレベルのサービスが提供できる。

例えば、清掃ロボットの導入事例を見てみよう。
埼玉県のビルメンテナンス会社では、107台のロボットを導入し、月間728時間の工数削減を実現した。
しかし、ロボットがすべての清掃作業を代替するわけではない。
細かい部分の清掃や、特殊な汚れへの対処は人間が行う。

重要なのは、ロボットと人間の適切な役割分担だ。
ロボットは単純で反復的な作業を担当し、人間はより付加価値の高い業務に集中する。
この分担により、全体の効率と品質の両方を向上させることができる。

デジタル技術を活用するには、新しいスキルの習得が必要だ。
センサーデータの読み方、システムの操作方法、簡単なトラブルシューティング。
これらの技術的知識は、今後のビルメンテナンス技術者には必須となる。

一方で、従来の熟練技術の価値も変わらず重要だ。
設備の微細な変化を感知する観察力。
経験に基づく故障の予兆判断。
緊急時の冷静な対処能力。

これらの能力は、デジタル技術では代替できない人間固有のスキルだ。

私のような熟練技術者の役割は、デジタル技術と熟練技術の橋渡しをすることだ。
若手技術者にデジタルツールの使い方を教える一方で、アナログ的な観察眼や判断力も伝承していく。

現場の未来を見据えた人材育成とは

これからのビルメンテナンス業界で活躍する人材には、従来とは異なるスキルセットが求められる。

未来の技術者に必要な能力

  1. 複合的技術知識:電気、機械、IT、環境など幅広い分野の基礎知識
  2. データ分析能力:センサーデータや運用データから有用な情報を抽出する技術
  3. コミュニケーション能力:利用者や関係者との円滑な意思疎通
  4. 問題解決能力:マニュアルにない状況でも適切な対応ができる判断力
  5. 継続学習意欲:技術の進歩に合わせて常にスキルアップを続ける姿勢

これらの能力を育成するには、従来の徒弟制度的な指導だけでは限界がある。
体系的な教育プログラムと、実践的な経験の両方が必要だ。

私が提案するのは、「理論と実践の循環学習」だ。
座学で基礎理論を学び、現場で実践して、その結果を分析してさらに理論を深める。
この循環を繰り返すことで、真の実力が身につく。

また、多様な現場での経験も重要だ。
オフィスビル、商業施設、病院、工場。
それぞれ異なる特性を持つ現場を経験することで、応用力と柔軟性が養われる。

メンター制度の充実も必要だ。
新入社員一人に対して、経験豊富な技術者がマンツーマンで指導にあたる。
技術的なスキルだけでなく、職業人としての心構えや業界の文化も伝承していく。

評価制度の見直しも重要な課題だ。
従来は作業の正確性や速度が主な評価基準だった。
しかし、これからは創意工夫、改善提案、チームワーク、顧客対応なども適切に評価する必要がある。

多面的な評価により、技術者のモチベーション向上と成長促進を図る。

まとめ

ビルメンテナンスという仕事は、決して華やかではない。
メディアに取り上げられることも少なく、利用者から直接感謝されることも稀だ。
しかし、この仕事には確実に「見えない価値」がある。

私たちが日々の業務を通じて守っているもの。
それは単なる建物ではない。
そこで働く人々の生産性。
そこを利用する人々の快適性。
そこで治療を受ける患者の安全性。

これらすべてが、私たちの技術と責任感によって支えられている。

30年以上この業界で働いてきて、最も強く感じるのは、「現場を生きる」ことの重要性だ。
どんなに高度な理論を学んでも、実際の現場に立たなければ真の理解は得られない。
床の冷たさ、音の反響、蛍光灯の色。
そうした細かな感覚の積み重ねが、プロフェッショナルとしての判断力を育てる。

業界を取り巻く環境は急速に変化している。
人材不足、デジタル化、環境配慮、法規制の強化。
しかし、どんなに時代が変わっても、人の生活を支えるという私たちの使命は変わらない。

若い世代には、この仕事の誇りと責任を理解してもらいたい。
経験豊富な技術者には、培った知識と技術を次世代に継承してもらいたい。
経営者には、技術者の価値を正当に評価し、働きやすい環境を整備してもらいたい。

私自身も、残された時間を使って、できる限りの貢献をしていきたい。
現場での指導、教育活動、執筆を通じて、ビルメンテナンス業界の発展に寄与していく。

最後に、この文章を読んでくださった皆さんに伝えたい。
明日オフィスビルのエレベーターに乗る時、病院で診察を受ける時、商業施設で買い物をする時。
その快適で安全な環境の裏側で、多くの技術者が誇りを持って働いていることを、少しでも思い出していただければ幸いだ。

私たちは今日も、見えないところで、皆さんの生活を支え続けている。